2021年3月号 日本人の心と礼儀

戦前の農村は知恵と工夫で暮らす日々

 昭和二十年代の中頃までの日本の農村風景は、本当に美しかった。同じように人々の心もきれいで思いやりがあり、大人達は自分の子供も他人の子供も分け隔てなく、きちんとしかってくれ見守ってくれていましたし、色んな事も教えてくれました。農村には現金は少なかったけれど、食べ物は何でもありました。

 現代、「手作り」と銘打った物が多く出回っていますが、その品々は当時の手作りと似ていても、食材の質が違い、余分な添加物も加えられて中身は全く同じではなくなっているし、作る目的が不純ですね。お金儲けの道具にされてしまっています。

 味噌、醤油、梅干し、タクアン、高菜漬け、味噌漬けなどは自家製で一年中ありましたし、夏場は饅頭、冬場はつき餅、かき餅の手作りを食べていました。野山には四季折々の珍味があり、おやつにはお金を払わなくても、自分の足で手で手に入れていました。そのお陰で、自然界のしくみを学び、「工夫」と言うことを遊びの中で学んでいたものです。

 各農家には牛がいて、牛の食料である草が多量に必要でしたから、農地の周り30~40mは全て草地で、里山は燃料にするための広葉樹が植わっている場所でしたから、スギの木を見ることは全くと言っていいほどありませんでした。牛は農家にとっては、荷を運んだり、田んぼを耕したり、さらには牛の糞と草と下肥で最高の堆肥が出来ますから、それを田畑に返して土作りをしました。

 かっての日本の農村は、循環がそのままの社会だったのですが、農村の人々を対象とした金儲けが始まり、高い金額のトラクター、化学肥料の出現によって、牛達は失業してしまい、農村から牛が消えてしまいました。草地には国が補助金を出してスギを植林してしまい、40~50年経過した今は、大きなスギの木々となり、光を遮って作物の生長に悪影響が出ています。さらに石油やプロパンガスが家庭での燃料となり、広葉樹林は必要なしと切り払われ、スギ山に変わっていきました。そのために、皆さんもご存じのように熊や鹿、イノシシ等の餌場がなくなり、やむをえず餌を求めて人の生活範囲に下りて農作物を荒らし始めましたから日本の農業はピンチに至っています。

 彼らから畑の作物を守るためにたくさんのお金を必要とするため、作物を作る意欲を失う人たちも出てきますし耕作放棄地が多くなるばかりです。今や農村は食糧生産がグーンと落ち込んできて、日本の自給率は下がる一方です。

戦後、近代化がもたらした原風景の崩壊

 昭和三十年代に始まった農業近代化、農工並進とまやかしの言葉により日本中が拝金主義に落ちてしまったと言えるのではないでしょうか。農家農地が金儲けの対象となり、農村住宅にカギをかける人は全くいなかったのですが、今や全戸がカギをかけるようになり、人々の心は自己中心的となり、農村からも助け合い思いやりの心が失われつつあります。

 教育が変わり、人々の心を育てる教育が失われ、金を得るための教育となり、大学の研究室も金儲けにっながる研究しか予算が取れないと言うことらしくて、本当に大切な「今後の人類にとって何か必要か」を研究していかないと、このまま拝金主義が続けば全てが崩壊し、人類は地球上から消えてしまうのもそう遠くないと思います。

 日本人が日本語をしゃべれない、理解できなくなっている現実に直面して、これから先の日本民族の行方が心配になります。自分の事しか考えられないように教育された四十代より下の若者と話していて「エッ」と思うことにたくさんぶつかります。例えば、小説家池波正太郎さんの言葉を借りて、「男の財布は身銭を切るためにあるのだ」と話したところ、「それは何ですか?」と斬り返されて、開いたロがふさがりませんでした。また、人から親切にしてもらったり物をいただいた時、「すいません」と言う若者が多いです。この言葉は相手の親切や物をくれた事は必要ないことなので「すいません」とも受け取れると思います。親切や物をいただいたことがうれしい場合は「ありがとうございます」と言うべきでしょう。「ありがとう」の使い方も知らなくなっている、失われているように思えます。

 「ごめんなさい」と言う言葉もまぎらわしい言葉ですね。今は必要以上に使われているように思います。過日聞いた話ですが、人間関係を壊さないためにいつも自分が「ごめんさない」と言っていたら、人間関係が反対に悪くなったと話していました。相手に対して悪かったなと思ったら「ごめんなさい」と謝ることは正しいことですが、その場の空気を悪くしまいと、取りあえず謝るのは、偽善であり傲慢な態度です。人間関係が壊れるのは当たり前ですね。

「私」と「あなた」境界線が対立を生む訳

 英語か、日本語かわからないような言葉や、やたら横文字を使うのも、いやな気がします。日本語をしっかり話せる教育を取り戻すことは重要なことだと思います。それに加えて戦前きちんと教えていたカタカナの復活も大切なことであり、カタカナの持つ重要性を説いていかなければと思います。そして、自己中心的な発想を産み出す「私」と言う言葉の乱用を避けることによって、相手と対立する考えが産み出されず、人と人はもっともっと理解しあい、思いやりの日々がやってくると思えます。明治以前、江戸時代には「私」と言う言葉は使われていないようです。

 戦後急速に、人々は日本人の心を失ったのではないでしょうか?お金があれば何でもできる、何でも手に入る、地位も名声も幸せも。戦後、物が無く食糧不足で芳しんだ人々はそんな風に思い込まされてしまいました。金儲けをするためには何でもやるのは日本だけではありません、世界の至る所で、地下に封じ込めてあった石炭や石油は掘り出され、それらを使って自然破壊が繰り返されました。お金のため人間の都合のため、日本でも自然破壊は進み、お山や川や鎮守の森に対する敬いの心は失われていきました。それと共に、日本語の乱用、それはマスコミによって誘導され翻弄されてきたともみえるのですが、人と人の間をつなぐ大切な日本語が乱れ、相手を敬う大切な心が失われてきたように思います。

 日本人の思いやりの心を失った人々によって政治や経済が動かされ始めた現代、そして未来はどうなって行くのか?心配でたまりません。クリキンディと言う名のハチドリのように、百姓道を世に伝えて行こうと決めて、一日一生の想いで生きています。

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